国の重要文化財指定と詳細

平成26年(2014年)9月、国の重要文化財に指定

東濱口家 正門

現存する東濱口家住宅の居館や土蔵など9棟は、平成26年(2014年)9月18日付けで文部科学省より国の重要文化財に指定されています。江戸時代の宝永4年(1707)頃から明治41年(1908)頃にかけて建築された屋敷は、各年代の建築様式を良好な状態で残す貴重な文化財と認められました。

また、東濱口家の濱口吉右衛門と遠祖を同じくする西濱口家(濱口儀兵衛方)の旧宅が平成19年(2007)に濱口梧陵記念館と津波防災記念館を併設した「稲むらの火の館」として生まれ変わったことにより、東濱口家住宅も広川町の歴史と文化をテーマとした町づくりに活かそうとする趣旨が国に理解されました。

安政元年(1854)の大津波に際し、稲むらに火を放って村民に避難を知らせた西濱口家の7代目・濱口儀兵衛(梧陵)は有名ですが、その近親である東濱口家7代目・濱口吉右衛門(東江)も、儀兵衛と協力して廣村の復興に奔走した傑物でした。

その功績を伝える意味も含め、近年、広大な東濱口家の庭園の一部分は広川町が管理する「東濱口公園」に生まれ変わりました。園内に建つ柱は、大津波がここまで押し寄せた時の高さを表示しています。

東濱口公園 大津波の表示
東濱口家 東面立面図・全体配置図

ところで、現当主の12代・濱口吉右衛門(勝久)は調査に訪れた職員へ重要文化財としての価値を訊ねると、二つの要素を挙げました。

まずは、300年前、200年前、そして100年前の三つの屋敷が、一つの家屋としてみごとに調和していること。さらに、江戸で大店に成長した当主たちが、江戸には質素な住まいを設け、国元を重んじる家風を継承してきたこと。この先人たちの精神を宿す東濱口家住宅は、未来に向けて子どもたちの郷土愛を育む資産として東濱植林株式会社が管理運営を行っています。

各住宅内部の詳細

「主屋」

建築様式木造つし二階建、本瓦葺、北面切妻造、南面入母屋造
建築面積86.00㎡

今にも筒袖や小袖姿に髷を結った家人たちが現れそうな木造と漆喰壁の主屋は、東濱口家住宅の最も古い棟です。江戸時代後半を象徴する“厨子(つし)二階”と呼ばれる建築様式は二階の天井が通常より低い町屋で、全国的に江戸期から明治末期に建築されました。この様式が生まれた要因は、「町人や百姓の身分でありながら武士を見下ろすべからず」の御法度にあります。

北面 大戸口
南面 格子窓

低い二階は主として物置き部屋で、東濱口家が庄屋・名主として存在した宝永年間を髣髴とさせます。おそらくは、漁業にも従事していた東濱口家の船大工道具や漁具、網なども保管していたのでしょう。 間口5間、奥行き4間の北面には大戸口が設けられ、南面は格子出窓が連なります。内庭の入り口には土間と上がり框が配され、簡素な台所、6畳間、8畳間、納戸が敷居を詰めています。

天井は低く、南東側の格子窓から採る陽射しが自然光として活かされていました。

主屋が建てられた頃、民家の灯りは魚油や菜種油を使った行灯が主でした。しかし、火事の備えは万全ではなく、多くの商家は昼間に客人を招いて外光を取り込むため、光が逃げぬよう低い天井に仕上げました。

この主屋も同様の形式を備えた簡素な設計で、初代・吉右衛門は銚子への東漸を果した後も、堅実で質素な暮らしであったことが窺えます。

低い天井の6畳間

「本座敷」

建築様式木造平屋、入母屋造、本瓦葺および桟瓦葺
建築面積154.81㎡

“紀州藩御勘定奉行直支配”を与った6代目・吉右衛門(矩美)は、上士の武家の来訪に礼儀を尽くすべく格式高い「本座敷」を増設しました。建築した文化11年(1814)頃の東濱口家の隆盛を伝える屋敷の玄関は武家門(冠木門)構え、まさしく士分を持っていた家格の証しです。現在も、この門をくぐり玄関から屋敷へ上るのは歴代当主と賓客のみで、主として慶弔事の際に使われています。

玄関から見る武家門

上がり框までの三間に那智黒石や玉砂利を配し、小床には迎賓を表す逸品の掛け軸や茶器が飾られます。この掛け軸は、吉右衛門が薫陶を受けた文化文政期の儒学者・亀田鵬斎の師だった三井親和(みついしんな)の揮毫です。 三井親和は信濃国諏訪藩の旗本・諏訪盛條の家臣・三井孫四郎之親の子で、12歳から書を学び、特に篆書は江戸随一と称賛されました。この揮毫も、現在のタイポグラフィー的な酒脱な作品。円熟した趣きに、誠美なもてなしの心を伝えています。

この本座敷の特筆すべきしつらいは、さりげなく贅を滲ませながら、江戸後期の東濱口家の矜持と吉右衛門の趣向が凝らされている三つの部屋です。

まずは、歴代当主を偲ぶ荘厳な10畳の「仏間」。きらびやかな金仏壇を崇める浄土真宗の信心は、吉右衛門の先祖であり、菩提の安楽寺の開祖である正了法師(濱口左衛門太郎安忠)に由来します。仏壇を取り囲む遺影は、左から11代・吉右衛門(久常)、8代・吉右衛門(熊岳)夫妻、9代・吉右衛門(容所)、10代・吉右衛門(無悶)と並び、惜しむらくは安政の大津波によって、それ以前の当主の肖像を失ったことです。

当主の遺影と仏間
二か所の炉を切った茶室

仏間の東に接する茶室は、当主が客人へ一服のもてなしを供した庵とも言えます。茶室の脇には古風な苔庭を配し、閑寂とした気配の中、歴代の吉右衛門が招いた文人墨客との歓談が聞こえてくるようです。実は、この8畳間が茶室であることが判ったのは、初代・吉右衛門(忠豊)の没後300年の法要を平成19年(2007)に営むため、畳替えをした時でした。

二か所の炉を切った粋なしつらいの庵で吉右衛門と茶を楽しんだ賢哲の一人に、漢詩家の大窪詩仏がいました。彼の人品骨柄は、狂歌で知られる太田蜀山人から「詩は詩仏、書は米庵に狂歌、俺、芸者小万に料理八百善」と称えられるほど著名な詩人でした。この茶室でゆるりと寛いだであろう大窪詩仏が、刎頸の友であり、漢詩の弟子である吉右衛門へ贈った作品を鴨居に飾っています。

秀逸な筆致は「来たる客も、送る客もある中、難しい問答はせず、世間話をしながら、静かに庭の山水を愛でつつ、ゆっくりと茶を楽しみましょう」と伝えています。

いかにも吟遊詩人的な大窪詩仏の書に、吉右衛門が悠々として生きた泰平の世を垣間見るようです。

大窪詩仏の漢詩
格式高い書院座敷

さて、本座敷が誇る12.5畳の書院座敷を訪れた武家や賓客は、隣接する仏間からの沈香に心を洗われ、金箔が施された書院、床の間、欄間などじっくりと審美したことでしょう。屋久杉の竿縁天井、玉杢の欅を使った付け書院、栂の四方正目の柱など、至高の仕立てが施されています。例えば、7代目・吉右衛門(東江)は、幕末の重臣で海軍奉行だった勝海舟を筆頭に、幾多の英傑と交流を持ち、この本座敷に招いたようです。 付け書院に掛かる揮毫は、勝海舟が自ら創作した言葉の“韻俗無然超(ちょうぜんぞくいんなし)”の書。

「世俗から離れ、抜きん出ていれば、周りの雑音は消えてしまう」の意味で、勝海舟が自身の訓示として用いていました。 余談ながら、晩年の勝海舟が幕末の回想と明治の時世を語った名著“氷川清話”には、海舟と昵懇だった函館の商人・渋田利右衛門が、吉右衛門を傑物の一人として紹介したと記されています。

勝海舟の揮毫「韻俗無然超」
床柱に残る、津波の高さを記した傷

一方、床の間とその柱には、苦い罹災の爪痕も残されています。安政元年(1854)の大津波によって削られた金箔の壁は“国の重要文化財”として扱われるため、今でも往時を偲ばせる姿を残しています。また、柱には津波の高さを記した傷が、家人の手によって刻まれています。

書院座敷を囲む回廊からは、四季折々に色づき移ろう静寂な庭園を眺めることができます。天然石を穿った蹲の水面が紀南の暖かい風に揺れる中、花はほころび、鳥は鳴き、時を忘れて花鳥風月を愛でるひと時が供されます。

山紫水明と苔庭を愛でる

庭に降り立てば、苔生した深い緑が踏み石を包み、素朴な日本庭園の情緒に包まれることでしょう。 苔庭の片隅には、緑の絨毯に鮮やかな朱色を映す石が配されています。その珍しい石は “佐渡の赤石”と呼ばれ、遊び心を演出することに長けた吉右衛門のセンスを実感します。

「御風楼」

建築様式木造三階建、入母屋造、西面物置および階段付属、桟瓦、本瓦および鋼板葺、石組付属
建築面積275.10㎡

聳える楼閣と呼ぶべき「御風楼」は、栄華を極めた東濱口家の最高傑作と言っても過言ではありません。もちろん、武家中心の封建社会が消え去った明治41年(1908)頃なればこそ可能だった豪奢な設計ですが、紀南における建築物としては異彩を放つ圧巻のスケールで、沿道添いの見物者は枚挙にいとまがないほどでした。 いわば9代目・吉右衛門(容所)と建築家、大工たちが英知を結集した三層の城で、「御風楼(ぎょふうろう)」と命名されています。

異彩を放つ御風楼
亀田鵬斎の揮毫「御風」

その由来は、文化文政期の儒学者・亀田鵬斎(かめだぼうさい)の揮毫によるとされています。つまり御風楼は、9代目・吉右衛門が亀田鵬斎と肝胆相照らす仲であった6代目・吉右衛門(矩美)の意志を継いだ迎賓館なのです。
おそらく吉右衛門は招いた賓客をまずは本座敷へ通し、ひと息をついた後、御風楼へ案内し、対照的な雰囲気を味わせたのでしょう。
主屋に増築した本座敷を経て、この御風楼へ招くことは、各建屋のしつらいを目にする客人に東濱口家が紡いできた歴史と文化を呈することでもありました。

本座敷からは、回廊をつたって御風楼2階へのきざはしへ、1階の使用人部屋や台所を目にすることなく進むことが可能です。そして、坪庭のせせらぎにも魅せられたことでしょう。

この坪庭は主屋の西詰めに配され、苔生した天然石を通した井戸水が、そのまま御風楼西側の池泉回遊式庭園に注いでいます。清冽な井戸水は、東濱口家の人々を潤してきた廣村の天然水。海に近い水脈ですが塩気がなく、初代・吉右衛門の頃より使われてきました。

そして、坪庭からきざはしを中ほどまで上がると、3畳間が配されています。広々とした御風楼には似つかわしくない小部屋ですが、吉右衛門が晴耕雨読に耽った書房でもありました。

坪庭の苔石を流れる、井戸水
庭園を眺める二階座敷

二階には東側に4畳半、西側に回廊をしつらえた6畳間と11畳間が繰り広がり、池泉回遊式の庭を展望することができます。 主室の11畳間は和洋折衷の家具・調度品を調え、西洋式の卓や椅子はすり脚を使っていたようです。そして、眼下の庭園美へのこだわりから、床の間と付け書院の脇に障子戸を組み込んでいます。吉右衛門らしいもてなしの心を察するのは、東南に開け放つ大きな窓の設計が、卓に着座した客人の視線を考え尽くしていることです。

回廊の縁側からは庭園の石積みを歩いて庭に下りることも可能です。あたかも深山幽谷を歩くかのような演出に、吉右衛門が考えた庭園は、どこかしら熊野古道を模したように思えます。客人たちは、この展望座敷で風に揺れる葉音に耳を傾け、縁側から篠つく雨に濡れる緑を愛でながら、心ゆくまで寛いだことでしょう。
単に庭を審美するだけでなく、体感する魅力を盛り込んだ二階の設計に、文明開化の時代を生きた吉右衛門の感性が表れています。

石積みをつたって庭園へ
頂点12mの展望座敷

そして、さらに洋風のきざはしを上ると、御風楼の檜舞台である三階座敷が現れます。 この頂上の高さは12mで、廣村一帯から沖合いの海原まで雄大なパノラマを眺めることが可能でした。

西側からは8畳間と6畳間を並べ、8畳間を主とした北・西・南向きの窓を開放し、270度のパノラマを目の当たりにすることが可能です。特に北西側の雨戸は、景観を邪魔しないように戸袋ごと床下へ収納できる大仕掛けを拵えています。

ガラス窓添いの回廊の内側には、畳敷きの入側を配して、客人への敬意と使用人への控えを示しています。この入側を用いることで、食事の配膳や給仕もスムーズに行えました。

また、6畳間には床の間と付け書院をしつらい、欄間は鳳凰を透かし彫りした精緻な造り。目をみはるのは、折上げ式の格子に組んだ天井の高さにあります。吉右衛門は、この座敷に洋式家具を用いて接客し、電灯が使われる計画でした。おそらく、明治から大正時代に流行した反射光(バウンス)を使って、高い天井から注ぐ、ほの明るい照明を考えていたのでしょう。

“>蕭々とした海風と潮の香りが寄せ来る三階座敷は、二階とは世界観を異にします。 しかし、この二つの造詣には、吉右衛門が愛した紀南の“黒潮の海”と“熊野の山”がシンメトリーしています。

御風楼を訪れたであろう賓客には、アメリカから伊藤博文が外交アドバイザーとして招いた国賓のジョージ・トランブル・ラッド博士。さらには、後の総理大臣に就任し、書家でもあった犬養 毅(木堂)が挙げられます。 おそらく彼らの味わった感動は、ここを訪れる現代人と微塵も変わらないものでしょう。

鳳凰の欄間
書院造りに洋風も取り込む

「新蔵」

建築様式土蔵造、二階建、切妻造、本瓦および桟瓦葺
建築面積39.37㎡

明治30年(1897)頃に、9代目・吉右衛門(容所)が建築した「新蔵」は、主に家財道具を保管した倉庫でした。ここには、四季折々に嗜好を変えた座敷の家具や調度品などが、納められていたようです。

二階建ての切妻造り、本瓦葺きの土蔵は桁行7.8m、梁間5.0m。蔵の中は各階とも2部屋に分かれています。骨組みは登梁を使った和小屋、壁は堅板張となっています。

家財道具を納めた新蔵

「南米蔵」

建築様式土蔵造、二階建、切妻造、本瓦および桟瓦葺
建築面積58.42㎡

「南米蔵」は、東濱口家が廣村の庄屋でもあった江戸時代末期の建築です。この土蔵は明治27年(1894)、現在の場所へ曳地(移動)されています。往時は、年貢米の米俵が山と積まれていたことでしょう。 二階建ての切妻造り、本瓦葺きの土蔵は桁行9.7m、梁間は北面が6.7m、南面5.3mの台形平面。蔵の中は一階を3部屋、二階は1部屋となっています。

骨組みは珍しく、水平の梁を架けた束立ての和小屋で、この土蔵の江戸期の架構は他の明治期の蔵と異なっています。 壁は一階が堅板張り、二階は漆喰の土壁となっています。 ちなみに、この南米蔵の柱には、安政元年(1854)当時の使用人が残した大津波の跡が記され、後世の家人へ警鐘を鳴らしています。

年貢米を保管した南米蔵
大津波の跡を記した柱

「北米蔵」

建築様式土蔵造、二階建、切妻造、本瓦および桟瓦葺
建築面積77.76㎡

東濱口家住宅の土蔵群の中でも際立つ大きさの「北米蔵」は、明治27年(1894)の建築。

二階建ての切妻造り、本瓦葺きの土蔵は桁行9.8m、梁間7.9m。蔵の中は一階の東南側を二つに仕切って、残りは1部屋になっています。壁は一階が堅板張り、二階は漆喰の土壁となっています。

庄屋制が解体された明治時代ですが、廣村の名門であった東濱口家に集まる米俵は多く、また家人や来客の備蓄米にも大型の蔵が必要でした。

「文庫」

建築様式土蔵造、二階建、切妻造、本瓦および桟瓦葺
建築面積34.71㎡

本座敷南側の「東濱口公園」に建つ文庫は、明治27年(1894)に建築。桁と梁間ともに5.9mの土蔵です。

二階建ての屋根は本瓦を葺き、切妻造りの内部は1室にし、骨組みは登梁を使った和小屋、壁は堅板張となっています。 ここには、歴代・吉右衛門が収集した文献や書物などが保管されていました。

修繕仕事の大工部屋
文庫

「左官部屋」

建築様式土蔵造、二階建、切妻造、本瓦葺
建築面積23.22㎡

「左官部屋」は文字通り左官職人たちが使用する納屋 兼 作業場で、明治期半ばの土蔵建築です。桁行は西面が4.9m、梁間は4.8mで、蔵の中は一階が土間。珍しいことに、二階は板敷の間に土を盛り、仮の土間を拵えていました。

一・二階とも土間の左官部屋