東濱口家住宅について

高野山に帰依

山 青く、海 碧く、風 熱く、人 厚き 紀南の地。その拠点の一つである有田郡広川町(旧・廣村)を在所としてきた東濱口家の遠祖は、遥かな昔、鎌倉時代末期の濱口四郎二郎忠宗なる平家武者に遡ります。

この人物より12代を経た濱口左衛門太郎安忠が尾張国(現在の愛知県西部)の武門を退き、仏門へ帰依したことから紀南における家風が起こりました。侍として嗜虐的な応仁の乱を目の当たりにした左衛門太郎安忠は、乱世の無常を儚み、康正2年(1456)室町幕府の管領・斯波氏の家臣から高野山宝憧院の僧へ出家したのです。その身上は、かつて源平の戦の折、北面の武士から剃髪し、一介の僧として諸国を行脚した西行法師に重なります。

十数年間、真言宗の修行を積んだ左衛門太郎安忠は、高野山を訪れた浄土真宗の蓮如上人と邂逅します。その結果、明応年間(1490年頃)、戦乱に荒れ果てた地の民百姓への功徳を決意。高野山を降り、廣浦の西之浜松崎の地に浄土真宗の道場を開きます。「松崎道場」と呼ばれたその古刹が、現在の広川町に建つ安楽寺の始まりです。ゆえに、累代の東濱口家当主の菩提寺はこの安楽寺となっています。

広川町 安楽寺

さて、正了法師と名を改めた左衛門太郎安忠には二人の男児が生まれ、嫡男・弥次郎実景を濱口家の嫡流とし、次男・菊松丸に安楽寺の座主二世を継承しました。弥次郎の息子以後、代々の嫡流は濱口安太夫を名乗って俗世に生き、廣村の名主的な存在となります。

往時の廣村は、ようやく徳川幕府による天下泰平の兆しの中、豊饒の海の恩恵を受けて多くの民衆が漁労によって糧を得ていました。漁民の先達だった崎山治郎右衛門は黒潮に乗って移住した下総国(現在の千葉県)の漁で一攫千金を成し遂げ、彼の薫陶を受けた濱口安太夫忠豊は、奥州(現在の岩手県)の南部鉄や瀬戸内沿岸の塩などの海運業も手がけます。

一頭地を抜く手腕を発揮した安太夫忠豊は、名を「濱口吉右衛門」と改名。近隣の湯浅村で発展を遂げていた醤油醸造に着目。ますます人口が増える江戸の需要を見越し、延宝年間(1670年頃)すでに紀南出身者が移植を始めていた下総国飯沼村に醤油蔵を設けます。この時が、現在の醤油銘醸地・銚子の始まりと言っても過言ではありません。

そして吉右衛門の二人の息子たちも紀南と下総を行き来し、二代目・吉右衛門忠泰は父忠豊とともに江戸への進出を模索しました。また次男の儀兵衛知直は、「ヤマサ醤油」を創業していったのです。 余談ながら、銚子市の中心部にある古刹・妙福寺の境内には、“紀国人移住碑”と刻まれた石碑が建っています。

「銚子の町の繁栄は、ひとえに紀州の出身者の功である」 と刻んだ碑を建立した親睦団体の“木国(もっこく)会”には、吉右衛門が引き連れた一族郎党の末裔も含まれているようです。 この濱口安太夫忠豊を東濱口家は初代とし、今日まで12代にわたって吉右衛門を世襲。所有する紀南の山林と広川町の東濱口家住宅(国の重要文化財)を脈々と守り継いでいます。

東濱口家住宅(国の重要文化財)

東濱口家住宅を構えた、三世代の当主

現存する東濱口家住宅は、宝永4年(1707)頃より歴代の濱口吉右衛門が継承し、改修・増築を重ねました。敷地面積約1,000坪の所有地には世代を超えた「主屋」・「本座敷」・「御風楼」が融合し、山紫水明を写した池泉回遊式の庭園とともに佇んでいます。

主屋
主屋宝永4年~同5年(1707~1708)頃に
建築。
当主初代・濱口 吉右衛門(忠豊)

「主屋」は初代・吉右衛門(忠豊)が建築した、二階建ての本瓦葺き木造住宅です。

吉右衛門は寛文2年(1662)に実家である安楽寺を出ると、廣村の西之浜に建てた新居を拠点にして下総国への東漸を果たしました。しかしながら、宝永4年(1707)に東海道から南海道へかけてマグニチュード8.4の巨大地震が発生。廣村には高さ14mの大津波が押し寄せ、家屋や土蔵をことごとく呑み込み、300人近い村民が犠牲となりました。

居宅のみならず、菩提の安楽寺まで失った吉右衛門ですが、本人は下総国に逗留中で難を逃れました。すでに晩年を迎えていた吉右衛門は廣村の復興に尽力するため、新たな主屋を海抜の高い仲町へ再建。名主の家格にふさわしい実務的な二階建ての町屋を設計し、その完成を見た後、生涯を閉じています。

主屋と格子窓
武家や文人墨客を迎えた、本座敷の玄関
本座敷文化11年(1814)頃に建築。
当主6代目・濱口 吉右衛門(矩美)

凛として静謐な趣きを湛える「本座敷」は、江戸後期の文化11年(1814)頃の当主だった6代目・吉右衛門(矩美)が建築しました。主屋とは一線を画すかのような入母屋造りの平屋敷には、荘厳な仏間や茶室、賓客を招く書院造りの座敷がしつらえてあります。

回廊から眺める庭園も幽玄かつ侘び寂びた景観で、名主や商家の身分を超えた格式を感じさせます。この造詣の深い本座敷を設計できた理由は、文化文政年間に活躍した吉右衛門(矩美)が紀州藩より“御勘定奉行直支配“の士分を与ったこと。さらに、江戸の醤油卸問屋、塩問屋、奥川筋積荷問屋として「廣屋」を盤石な大店へ成長させ、公儀から厚遇される立場だったためでしょう。

書院座敷には紀州藩の武家だけでなく吉右衛門が薫陶を受けた文人墨客も訪れたらしく、文化文政期の儒学者・亀田鵬斎(かめだぼうさい)や漢学者・大窪誌仏(おおくぼしぶつ)の揮毫など、東濱口家は幾多の名品を残しています。

しかし、7代目・吉右衛門(東江)が当主であった安政元年(1854)、東南海で大地震が発生します。大津波は再び廣村へ押し寄せ、この本座敷も浸水。その爪痕が、現在も床の間の柱に残されています。

幽玄な雰囲気を湛える、座敷回廊と庭園
楼閣のような「御風楼」

幕末から明治維新への変革は、士分を与る東濱口家にとって存亡の危機でした。しかし、7代目から8代目、そして9代目・吉右衛門(容所)の尽力により東濱口家は激動の時代を乗り越えます。新政府の経済政策に恭順し、東京での卸売業の廣屋を存続・拡大させた吉右衛門は、先見の明を持って豊国銀行や九州水力電気㈱などを開業。東濱口家を、大きく成長させました。

彼は、封建制度と身分差別が消え去った新しい欧化社会を謳い上げるかのように、典雅な「御風楼」を増築します。

楼閣を髣髴とさせる三層式の木造住宅は「御風楼(ぎょふうろう)」と名付けられ、そこかしこに創意工夫がほどこされています。吉右衛門はここを迎賓目的の屋敷とし、国賓の哲学者・ラッド博士、後の総理大臣・犬養毅などをもてなしています。

異国情緒も感じる和洋折衷の二階座敷からは池泉回遊式の庭を眼下にし、あたかも熊野古道の世界を表しているかのようです。三階座敷の回廊には270度のパノラマを眺める仕掛けも施され、幾人もの賓客が驚嘆し、紀伊水道の海の碧さを歎美したことでしょう。

池泉回遊式庭園を見下ろす二階座敷

アクセス

所在地和歌山県有田郡広川町広1292
管理東濱植林(株)
〒643-0071 和歌山県和歌山市有田郡広川町広1302-1
電話:0737(63)2211
交通手段についてJR紀勢本線「湯浅駅」より、タクシーで5分。
*JR和歌山駅から「湯浅駅」までは、紀勢本線にて45分。
*大阪、神戸、京都方面からは、JR線・特急くろしおをご利用の上、JR「湯浅駅」へ。1時間30分を所要。
(注:通過列車がございますので、ご注意ください)

東濱口家 周辺地図